2010年3月28日 (日)

『直毘霊』を読む・八 : 13

★★★当ブログの本編です。ご一読くださいませ。★★★
因幡の白兎 その部分でのボタンの掛け違えというのが、どのような結果を及ぼすのかというと上田秋成と宣長の論争になってしまうのですかね。
海彦 まぁ、ある意味ではそうですね。秋成さんとの論争はかなり幅広くなっていますからね。
因幡の白兎 上田秋成に対しての一番最初の対応として、互いに論議を深め合っていくというスタンスではなくて、いきなり「これはそういうものなんだ」という言い方で返答するじゃないですか。それに対して何言ってんだということで上田秋成も熱くなってしまう。それに対してまた宣長さんも言い返す。

最初からそこの部分、“神の道”での「道」のとらえ方のスタンスの違いというのがボタンの掛け違えとしてずっと最初から最後まで続いてしまったのかなというのはあるのかもしれませんね。
海彦 そうですね。その違いが出てきたところの根底にあるのが“漢意(からごころ)”です。宣長さんが書いている『鈴屋問答録』というのがあって、そこにわかりやすく書いているんで紹介すると、
「わが御国は(中略)目にも見えず耳にも聞こえぬ理(ことわり)をたずねまうけてとかくいへる事さらになければ、火はただ火也(なり)、水は水也、天はただ天、地はただ地、日月はただ日月也と見る外なし。」

「皇国(みくに)にていうかみ(神)は、実物の称(な)にいえるのみにて、物なきに、ただ其(その)理を、指(さし)ていえることはなき也。されば唐の易(えき)に神道と云(いえ)るも、神霊不測なる道と云(いう)意なるを、御国にて神道と云(いう)神は、実物の神をさして云(いえ)り。又(また)社(やしろ)に祀る神の御霊(みたま)などを、かみと云(いう)は実物にはあらぬに似たれども、これも其(その)霊を、直に指(さし)てかみと云也(いうなり)。唐の如く、其(その)霊(くしび)なる所を云(いう)とは異(ことなる)也。故に皇国のかみは体言のみに用いて、用言に云(いえ)ることなし。」
『鈴屋問答録』
日本では、「もの」が無いのに、その理(ことわり)だけを指して“神(カミ)”ということは一切無いんですね。中国の易経で「神」、「神道」といった言葉が出てくるんですけれど、「神(あや)しき道」という意味で言うんです。でもそれに対して、日本で言うところの「神道」の“神(カミ)”というのは実物を言うのだと。

また、神社などに祀る“神(カミ)”、神の御霊を“神(カミ)”と言う。それは実物としては無いように聞こえるかもしれないけれども、それも神の御霊を直に指して“神(カミ)”と言うんですね。中国で言うように御霊の非常に不可思議で“あやしい”ところを形容して言うのではないんです。だから日本の“神(カミ)”は体言の みで用いるのだと。

日本では目にも見えず耳にも聞こえぬ理(ことわり)を、根掘り葉掘り追求することは全く無かったのだと。火は火、水はただ水、天(あめ)はただ天(あめ)、地(つち)はただ地(つち)、日月(ひつき)はただ日月(ひつき)。“神(カミ)”もただ“神(カミ)”だったと。そのようなことを書いています。

これで“神(カミ)”のアウトラインは、およそわかってもらえるのではないかと思います。

付け足して言うならば、“神(カミ)”というのは、先程言ったように善悪に関係無いとするならば何に関係するのかというと、“誠(まこと)”という言葉がありますよね。この「誠か誠ではないか」というところには結構関係してくるんですよ。

“神(カミ)”は千差万別、様々にいるけれども、みな“誠(まこと)”という意味では徹底しているというか、共通しているんです。“誠(まこと)”でない“神(カミ)”は一人もいません。

ただこの“誠(まこと)”という言葉も多様な意味を持っていて、ある意味、悪も徹すれば“誠(まこと)”といえますからね。

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2012年3月23日 (金)

『直毘霊』を読む・八 : 14

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因幡の白兎 純粋な悪というのは悪においては“誠(まこと)”ということですね(笑)
海彦 (笑) だから人をたぶらかすのは誠(まこと)ではないと、われわれはどうしても思うけれども、一生懸命たぶらかそうとしているのは“誠(まこと)”なんですよ。(笑) これは『くずばな』に出てくるんですが、宣長さんはこういっているんです。古事記を見ると、神様はいろいろな謀りごとをめぐらしてやっていますね。 そういったことは“誠(まこと)”ではないではないかと普通は考えるのかもしれないが、そうじゃない(笑) 一生懸命に謀っているのだからそれは“誠(まこと)”なんだと。
因幡の白兎 人間でいうならば自分自身の金儲けのためだけに一生懸命になって他の人がどうなってもかまやしないと動いていたとしても、それが純粋に突き詰められていればそれは“誠(まこと)”だということですね(笑) 純粋にそれだけにやっているのであれば。
海彦 (笑) ここで間違えやすいのですが、“誠(まこと)”という生き様をしていることを抽象化して“神(カミ)”と言うんじゃないんです。悪でも何でもくだらないことでも、一生懸命にやっている、我を忘れてやっているならば、それが度を外れて、人間の目から見て理解しがたいという状態になったときに「おおっ、“ 神(カミ)”だ」と。
因幡の白兎 それがたとえ取るに足らないようなどうでも良い小さな些細なものであったとしても……(笑)
海彦

突き抜けていたら“神(カミ)”なんです(笑) 突き抜けているものの形容を“神(カミ)”だと言っているのではなくて、突き抜けている“コト”をやっている事実、その“コト”そのものを“神(カミ)”だと言っているんです。“神(カミ)”というのはその名なんです。そういうことを理解しておく必要がありますね。

そうなるとここでひとつ問題が出てくるんです。“神(カミ)”というのは“モノ”である。そうすると“モノ”とは何であるのか。論理的に“神(カミ)”とは何かと定義するならば、第一義に“神(カミ)”とは“もの”のひとつであるということですよ。ここで、さまざまな他の創唱宗教、教祖と教義がある宗教と全く違う次元に行ってしまうんですよ。“神(カミ)”は“モノ”なんですよ。

“モノ”というのは実物です。人間の頭の中で、ああじゃないこうじゃないと作り上げたものではないんですよ。人間がどのように考えようが、そこにそのまま存在するものですよね。“神(カミ)”とは“もの”である。“モノ”の中で、宣長の言葉を借りれば「世の常ならず優れたところがあって、可畏(カシコ)きもの」なんで す。“モノ”の中でも、普通では考えられないような突き抜けたところがあって、畏れ多いと感じさせる“モノ”そのものを“神(カミ)”と言うんです。

それが人間の中に、奇異(くすしあやし)さ、畏(かしこ)さの情を顕現させてくる。それを理屈で分解し、言語化して理解しようとしても、そのようなものが全く及ばない突き抜けたもの。でも、その“モノ”に触れた瞬間に、理屈とか観念とかではなくて、その“モノ”を“モノ”として受け止めた刹那に起こる“情(じょう)”は、確かにある。その時、その“モノ”と人は一体になっているわけです。その瞬間において、“コト”としての、すなわち言葉としての「“神(カミ)”」が生まれるんです。それが原初において生まれた“神(カミ)”という言葉(名詞)ですね。そうなると“神(カミ)”という言葉は、“神(カミ)”という“モノ”を形容して名付けたのではなくて、“神(カミ)”という言葉そのものが、“モノ”(=“神(カミ)”)によって同時に顕現された“コト”そのものであり、言葉という“コト”の顕現は、そのまま “神(カミ)”の顕現なんです。そして、これらは同時の出来事です。

言葉遊びのようなことを言っていますけれど、これは、現在“モノ”と“コト”というのが国語の中で、別の意味を表すようになっているので分かりにくいですけれど、根源を見るならば“モノ”も“コト”も一緒なんです。“コト”を瞬間で見るならば、“モノ”ですよ。同様に“コト”と言葉の“コト”も実は一緒なんです。これは時代を経るにしたがって、分化していったわけですね。

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2012年3月24日 (土)

『直毘霊』を読む・八 : 15

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因幡の白兎 その部分の感性が残っている。その感性の部分がある意味では「言霊(ことだま)」に出てきていると考えても良いのですかね。
海彦 ある意味ではそうですね。「言霊(ことだま)」というよりも“コト”ですよ。

これは本居宣長研究ノート「大和心とは」 : 第一回 「物とは」の巻で、“モノ”と“コト”の一般的な意味として岩波古語辞典から引用しておきました。改めて確認すると、
物(モノ)
  • 形があって手に触れることのできる物体をはじめとして、広く出来事一般まで、人間が対象として感知・認識しうるものすべて。コトが時間の経過とともに進行する行為をいうのが原義であるのに対して、モノは推移変動の観念を含まない。むしろ、変動のない対象の意から転じて、既定の事実、避けがたいさだめ、不変の慣習・法則の意を表わす。また、恐怖の対象や、口に直接のぼせることをはばかる事柄などを個々に直接指すことを避けて、漠然と一般的存在として把握し表現するのに広く用いられた。人間をモノと表現するのは、対象となる人間をヒト(人)以下の一つの物体として蔑視した場合から始まっている。
事(コト)
  • 古代社会では口に出したコト(言)は、そのままコト(事実・事柄)を意味したし、また、コト(出来事・行為)は、そのままコト(言)として表現されると信じられていた。それで言と事とは未分化で、両方ともコトという一つの単語で把握された。従って奈良・平安時代のコトの中にも、言の意か事の意か、よく区別できないものがある。しかし、言と事とが観念の中で次第に分離される奈良時代以降に至ると、コト(言)はコトバ・コトノハといわれることが多くなり、コト(事)と別になった。コト(事)は、人と人、人と物とのかかわり合いによって、時間的に展開・進行する出来事、事件などをいう。時間的に不変の存在をモノという。後世コトとモノとは、形式的に使われるようになって混同する場合も生じてきた。

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2012年3月30日 (金)

『直毘霊』を読む・八 : 16

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海彦 形があって手に触れることのできる物体をはじめとして、広く出来事一般まで。要するに出来事も“モノ”なんですよ。“コト”も“モノ”ですね。人間が対象として認識して感知しうる全てを“モノ”と言う。“コト”が時間の経過と共に、展開・進行する出来事、事件などを言うように、少し違いはあるんですけれどね。先にも言ったように、“コト”を瞬間で見るならば、“モノ”ですよ。また、これは以前にお話ししたことですが、ここに「時間」という言葉がありますが、わが国上代には、直線状に進行する座標としての「時間」という概念は、そもそも存在しません。実物の“モノ”の連なりを「時(トキ)」というのであって、あるのは実物である“モノ”の連なりだけです。その変化に気づいた刹那、「時(トキ)」が感じられるのであって、根源から見るならば、“モノ”も“コト”も同じです。

また“コト”に関していうならば、古代社会では “コトバ”で表現された“コト”は、事実そのもの、すなわち出来事としての“コト”と等価だったんです。そして、出来事としての“コト”は、そのまま“コトバ”として表現できるとされていたんです。“コトバ”と“コト”は未分化だったんですね。

このように、“神(カミ)”を理解するために、我々が前提としてわかっていなければならないのは、まず“モノ”です。それから“コト”。それから“コトバ”。

原則的に、あまり変化しないものに対して“モノ”と言うのだけれども、この世の中には変化していく“モノ”も当然あるわけですね。“コト”にしても、ある出来事が起こった瞬間、その背後に何者かの底知れぬ実在感を感じる場合には“モノ”とかね。よく「もののけ」と言いますけれど、“コト”を瞬間的に切り取ると、それは静的な“モノ”ですよね。

要するに“モノ”そのものが連なって、その連なりに関連性があって、動き(変化)の相から見るときが“コト”で、ひとつひとつに分解し、静的に見たらそれは“モノ”なんです。それから、“モノ”も“コト”も、それぞれ固有の「性質情状(あるかたち)」を持っていて、それが人間に様々な「情」を喚起させる。その仕組みは全く同じです。

そして、“コトバ”というのも、刻々と生まれてくる“モノ”“コト”そのものだから、“コトバ”が生まれた瞬間、表現された“コト”と、出来事の“コト”は等価なんです。つまり、出来事の“コト”であろうと、言葉の世界で表現(実現)された“コト”であろうが、それを受け止める「情」から見れば、全く同じ感応を受けるわけです。結局、世の中に生起した事(コト)という意味では、出来事として起こった“コト”も、言葉として起こった“コト”も、同じということですね。

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2012年4月 7日 (土)

『直毘霊』を読む・八 : 17

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海彦 先ほど“誠(まこと)”について、簡単にふれましたが、ここで、“真心(まごころ)”というか、“真(まこと=誠)”について、補足しておきたいと思います。真心(まごころ)”については、すでに本居宣長研究ノート「大和心とは」 : 第七回「「真心(まごころ)」とは」の巻 / 本居宣長研究ノート「大和心とは」 : 第八回「『真心(まごころ)』の型」の巻で書いていますが、宣長さんは、“真心(まごころ)”について次のように言っているんですね。
口語訳

真心(まごころ)とは、産巣日(むすび)の神の御霊(みたま)によって、備え持って生(うま)れたままの心をいう。さてこの真心には、智なるもあり、愚なるもあり、巧(たくみ)なるもあり、拙(つたな)きもあり、良きもあり、悪(あし)きもあり、さまざまであって、天下の人は、ことごとく同じものではないので、神代の神たちも、善事にもあれ悪事にもあれ、おのおのその真心によって行いなさったのである。(中略)すべて善にもあれ悪にもあれ、生まれついて持っている心を変(かえ)て移るのは、皆真心を失うのである。
海彦 “真心(まごころ)”というのは、一般に言われる誠実さとか誠意とか、善の観念が付いているもの。それとは関係ないんです。生まれたまま、そのままで動く“心(こころ)”なんです。

なにか“コト”に触れれば悲しい、嬉しい、腹立たしい。そのように、ありのままに動く“心(こころ)”が“真心(まごころ)”なんです。

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2012年4月14日 (土)

『直毘霊』を読む・八 : 18

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因幡の白兎 それで言うとお母ちゃんに会えなくて「悲しい」って言って、髭がボウボウになるまで泣き喚いていたスサノオなんかは“真心(まごころ)”そのものであったといえるわけですね。
海彦 そうですね。“真心(まごころ)”というのは、それが良いことである、悪いことであるといった善悪を超えて、“コト”に触れて素直に動いている、動かされているそのままを“真心(まごころ)”と言っているんです。だからこれは、価値判断なんかから外れたものなんです。そういう“真心(まごころ)”において生きている人においては、出来事として起こったと認識した“コト”も、それを表現した言葉としての“コト”も、全く同じですよね。共に、心に偽りの無い真(まこと)によって認識され、生み出されているという点では、一貫しています。ここが分からないと、宣長さんの言うことは、なかなかわからないと思います。
因幡の白兎 言葉を言葉として確定された後の意味のところから取っていくとどうしても掴み損ねてしまうということですね。
海彦 “コト”に触れてそのままに動く。嬉しいときは嬉しいし、悲しいときは悲しい。善悪とか、賢愚とか、巧拙とか。一切の価値判断に関わることなく、“コト”に触れて動くという純粋な働きを、何のはばかりもなく働かせている“こころ”を、“真心(まごころ)”と言うのですね。

だから簡単に言うと“コト”に触れて動く“こころ”は“真心(まごころ)”なんです。そして、“真心(まごころ)”において、出来事として認識した“コト”も、行動した“コト”も、“言葉(ことのは)”として発した“コト”も、偽りの無い“こころ”、すなわち真心(まごころ)から生み出された“コト”という意味において、全て真実なんです。

だから宣長さんは古事記はすべて真(まこと)だと言ったんです。われわれは古事記に書いてあることは、荒唐無稽な神話の中の架空の出来事と言いますが、全くとらえ方が違いますね。
因幡の白兎 逆に荒唐無稽な物を整理しようとしていないということが素晴らしいことであるということですよね。ある意味で。
海彦 神代に起こったことが、偽りのない真(まこと)の位において、そのままに記されたんで、それは真(まこと)ですよ。
因幡の白兎 それを整理整頓してわかりやすく論理立ててやっていないということですね。
海彦 当時の常識であった陰陽二元論などの世界観でもって、色々と書き直したりしたのが日本書紀ですね。
因幡の白兎 (笑)

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2012年4月20日 (金)

『直毘霊』を読む・八 : 19

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海彦 ですから逆に言うと、日本書紀はそのままでは信用できない。その点、古事記はまったくありのままの“コト”に忠実ですよ。現代人のいう科学的真理とか、普遍的真理とかは、昔の人たちには何の関係もないですから。

真実そのままを書いたということです。
因幡の白兎 伝えられているものをそのまま残したということですね。それを世界観で再構成はしていないということですよね。
海彦 起こった事実のままですよ。“天照大御神(アマテラスオオミカミ)”が“豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)”に産まれたのも、そのままの“真(まこと)”です。真実。

われわれはこの世の中には、科学的な検証にも耐えられる普遍的真理というのが一つだけあるのだと思っていますけど、そういう見方そのものが……
因幡の白兎 “漢意(からごころ)”。
海彦 そんな科学的・普遍的真理なんてものが実際あるんですかね。いつ、どこでも、誰にでも当てはまり、論理的にも検証可能な真理というものが、この世のどこかに必ず存在するという幻想を“漢意(からごころ)”というんです。
因幡の白兎 ひとつの価値判断ですべてを一色で染め上げるということですかね。
海彦 そうですね。要するに科学というのは、あるひとつの条件(公理)を設けて、そこから概念操作や、因果律など特定の物の見方を用いてみたならば、こういうこと(=結果)が言えますよという。ただそれだけの論理的整合性があるのに過ぎないのだということは、『直毘霊(なおびのみたま)』の最初の方で既に説明したと思います。
因幡の白兎 その点、そういったひとつの視点という形ではなく、視点という物を持たずに“コト” そのものを記したのが古事記であったということですね。
海彦 そうです。だからすべて“真(まこと)”。信じるに足る。信用するに足る。
因幡の白兎 しかし、なかなか現在では信用されないでしょうねぇ(笑)
海彦 でも宣長さんは、それが本当に起こったことだと、素直に情(こころ)で受けとめたというか、“真心(まごころ)”で受け取っているんですね。そこにおいて、何の偽りも断絶もないですね。
因幡の白兎 断絶はないですね。

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2012年4月27日 (金)

『直毘霊』を読む・八 : 20

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海彦 われわれの、そういう“漢意(からごころ)”的な世界観だとか真理だとかいうものを中心にして物事を見ようとする一元的な見方。何事にも論理的な整合性を求める見方。そういった見方自体が、人間の浅はかな知恵の産物なんだと宣長さんは言っているわけなんですね。
因幡の白兎 人間が考えている、人間が把握できている範囲内においての論理関係によって世界はすべて動いている。ということを、すべての前提にすることによって世界を「見る」。それが全面的に正しいとしているのが、今の価値観であるのは事実ですよね。
海彦

因幡の白兎
そうですね。


しかしそれは逆に言うと、人間が認識するものというのは「見たいものしか見れない」部分がある。それで言うと、結局のところ「見たいものしか見れない」、その限られた中での判断の基準でしかない。それが論理関係的に正しいというのは、論理関係を証明する範囲の中のものしか見ていない。自らが作り上げた、論理関係で把握することができるものしか見ていないのですから、それが論理関係で正しくなるのは言うまでもない。しかし、それ以外の部分については見ていないということですよね。

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2012年5月 5日 (土)

『直毘霊』を読む・八 : 21

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海彦 そこは以前取り上げて、そもそも真理とは何かとか、真理の判定基準としての検証原理とかの話をしましたけど。そういったこととは一切関係のない(笑) 無いというよりも、そもそもわれわれが、そういったものに染め上げられなければ原初的に持っている、しかもそれは日本人だけが持っているのではなくて、どんな人でも産まれながらの“真心(まごころ)”のままであるならば、そのようにしか見ることができない。そのようなものですね。

それは一つの捉え方というよりも、本当のところわれわれは、実質的に根っ子の部分では、そのような見方で感じられたもので動かされているんですよ。近代以降、客観と主観を峻別して、客観的なものを徹底的に分析して出てきたものが普遍的真理であるかのように考えられていますけれど、それとは全く違ったもの。外界に起こったことであろうが、言葉の世界で起こったことであろうが、心の中で起こったことであろうが、それはすべて同じ“コト”。“コト”と“モノ”の織りなすこの世界の中に、確かに生起したものという点で結局同じなんですよ。

で、それを受け止めた人間のリアクションは、一体何で決まるかと言うと“コト”に触れて感じた度合い。すなわち感応の度合いですよ。その際、“コト”に触れた刹那、動かされるままに感応すれば“真心(まごころ)”なんですけれどね。

ところが往々にして、その“コト”を受け止めたとしても、すぐに“漢意(からごころ)”で、これはこういうことで赫々云々と理屈をつけて納得してしまう。たとえ怪しいものに出くわしたとしても、単に光の反射で変に見えただけだ、とか理由をつけて怪しいものを怪しくないものにして納得してしまう。でも、怪しいものとか、普段現れないようなものが見えた瞬間、理屈をつけて納得してしまう前に、ある種の感応は確かに起こっていわけです。その感応をそのまま素直に表したときに、人の振る舞い、出てくる言葉、心の動きはすべて“真(まこと)”です。そういったところで、上古の人々は動いている。

この形は、今の人たちも根本はぜんぜん変わらない。その瞬間の受け止め方というか、感応は同じ。結局、世の中に起きた“コト”に感応して皆、動いているんですよ。



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2012年7月 5日 (木)

『直毘霊』を読む・八-全文 (下)

  • しばらく空いていたということになりますが、改めてということでお願いします。

そもそも天地のことわりはしも、すべて神の御所爲にして、いともいとも妙に奇しく、靈しきものにしあれば、さらに人のかぎりある智りもては、測りがたきわざなるを、いかでかよくきわめつくして知ることのあらむ。

  • 前回のところで「すべて神の御所爲(ミシワザ)にして、」というところを取り上げました。この「神の御所爲(ミシワザ)」という言葉が、一つのキーポイントになるという話で終わっていました。この世の中のことは、全て神の御所爲(ミシワザ)によるものなのだということですが、この意味を理解するためには、まず“神(カミ)”という“こと(言)”を理解しないといけない。“神(カミ)”をどのように捉えるかによって、理解の仕方が大きく異なってくる、ということを言いました。
  • キリスト教であったり、それ以外にも仏教であったりイスラームであったり、“教え”を最初に説いた人がいる創唱宗教。その創唱宗教と呼ばれている“宗教”における“神”と、宣長の『直毘霊(なおびたま)』で言っているところの“神(カミ)”とでは意味合いが違うのだということですね。
  • そうですね。ここでもう一度、“神(カミ)”とは何ぞやということを説明しないと、これ以降のところがなかなかわからないのではないか思いますので、改めて触れてみたいと思います。
    これに関しては、本サイトの本居宣長研究ノート「大和心とは」 : 第十回「神」の巻 / 本居宣長研究ノート「大和心とは」 : 第十一回「神の御所為(みし わざ)」の巻 / 本居宣長研究ノート「大和心とは」 : 第十二回「神の道」の巻にも書いています。これは、かれこれもう5年前になりますが、宣長を理解する上で最も土台となる部分を、十二回に分けて書いたものです。これを読んでいただくと、宣長が大体何を言わんとしているのかは分かるかとは思いますが…(笑)ただ読んでくださいということでは不親切なので、ここで簡単に振り返ってみた方が良いのではないかと・・・。
  • なかなか理解しずらいということですね(笑)ノートというだけにある意味、メモ書きみたいなものですから具体的な取っ掛かりがないですからね。
  • まず最初に“神(カミ)”とは何なのかということで。宣長は、我が国上代の “カミ”という言葉は、漢語の“神(シン)”という字と、意味も用法も異なるものだということを書いていますね。


    つまり、漢語で言うところの“神(シン)”というのは、一つの名詞であるだけでなく、“計り難く霊妙な道”という、ある“モノ”の持っている性質を概念的に形容した言葉でもあるんですね。それに対して日本の“迦微(カミ)”というのは、そういった、形容詞的概念は全く無くて、ただ姿・形があって、現実に実在する“モノ”を直(じか)に指した名なんだというわけです。だから“迦微(カミ)”という言葉を理解するためには、この“モノ”というものを明らめないといけない。


    以上のことは、本居宣長研究ノート「大和心とは」 : 第十回「神」の巻の注釈の部分でも、
  • 注釈

    「迦微(カミ)に「神」の字を当てているのは、よく当たっていると思う。ただし「カミ」というのは体言で、単にそのものを指していうのみで、その事その徳を指していうのではない。中国では物を指していうのみでなく、その事その徳などを指していい、体言にも用言にも用いる。例えば、中国の書物で神道というのは、計り難く霊妙な道ということで、その道のさまを指して神といい、道の外に神というものはない。しかし、わが国では神の道といえば、神が始めた道、行った道ということで、その道のさまを「カミ」ということはない。もし「カミ」なる道といえば、中国の意味のようになるが、それでも、ただ単にその道を指していうことで、そのさまをいうのではない。」

  • と書いていましたね。繰り返すようですが、中国で“神(シン)”は“モノ”を指して言うのみではなく、その“性質”や“有り様”を指して“神”と言い、体言にも用言にも用いるのだと。だから、中国の書物で「神道」と書かれていたならば、それは「計り難く霊妙な道」のことになりますね。その道の“さま(様)”が“神”なんです。そして、その「霊妙な道の“さま(様)”」の外に神というものはない。


    一方、我が国では、“モノ”を直(じか)に指して“迦微(カミ)”と言っているのであって、“モノ”の持っている性質だとか働き、有り様だとかを“迦微(カミ)”と言っているのではないのだと。だから、我が国で“神(カミ)の道”と言えば、その計り難く霊妙な「道の“さま”」を言うのではなくて、“迦微(カミ)”が始めた「道 (ミチ)」、または行(い)った「路(ミチ)」のことをいうわけです。


    ところで、この「ミチ(道)」というのは、中国で言う「聖人の教え」のように、神様の「教え」といった抽象的なものを指すのではなくて、端的にいえば「道路(どうろ)」のことです。


    そして、この言葉にはもう一つ意味があって、例えば、土の道を車輪の付いた車で行くと、普通、道の上に車輪の跡ができますね。これを轍(わだち)と言いますが、神代において“迦微(カミ)”が起こした様々な出来事が、事跡となって、あたかも路上に出来る轍(わだち)のように残っている。その生々しい事跡の具体的な連なりを「道 (ミチ)」というのです。我が国で言う「道 (ミチ)」とは、このように徹頭徹尾、具体的な“モノ”なんです。
  • 「道」そのものということですね。
  • 「道」というのが何か仏の「道」とか孔子の説く「道」だとか人の生きる「道」だとかの「道」ではないんです。道路の「道」です(笑)
  • 精神修養・精神求道的な姿勢とかの「道」ではなくて、もう純粋に道路そのものとしての「道」。
  • だから“神(カミ)”がはじめた「道」というのがどういうことなのかというと、神様がいろいろと動いた。動くと“コト”が生じます。“コト”は何らかの変化によって起こる出来事ですね。その出来事の事跡そのものを“神(カミ)の道”と言うんです。“神(カミ)”が通った「道」。先程も言いましたが、車が通ると轍(わだち)ができますよね 。その轍(わだち)がいろいろな形になりますね。それが「道」ですね。神様がいろいろなことをなされた。そのなされた“コト”の痕跡・集積を「道」と言うんです。それ以外に「道」はない。
  • だけど「道」というのは、あるべきものとして求めるべきものとしてあるではないのですか?
  • いやいや。求めようと思うならば観念化しなければいけない。仏の「道」とか聖人の「道」とかは、一人の聖人が説き、行った理想化されたものでしょ。だからそれは頭の中でひとつの価値判断によって純粋化されるというか、論理的な整合性をもって、皆の目標とすべきものとして掲げることができる、ひとつのまとまった意味連関。徹頭徹尾、論理的に完結しているものですよね。
  • しかし神惟道(かんながらのみち)と言うならば、それが正しいと考える、それが日本人が今までやってきた正しい「道」と考えるならば、その“神(カミ)”が歩んできた「道」は何らかの形で人間にとって正しいという意味合いを持っているものとして考えても良いとは思うのですが……。
  • 正しい正しくないという次元とは全く関係が無いんです。簡単な例で言うならば須佐之男命(スサノオノミコト)の生き様を見れば良いですよ。あの生き様をありのままに見るならば、聖人の「道」というか、 そういった規範には当てはまらないものが出てくるんですよ。
  • その通りですねぇ(笑)
  • 確かに一部、良さそうな行いは、しているように見えますが(笑)
  • 少なくとも土手は壊すわ、神殿にウンコを巻き散らかすわ、死んだ馬を投げ入れるわ(笑)
  • (笑)須佐之男命(スサノオノミコト)などはまだ良い方かもしれません。伊邪那岐命(イザナギノミコト)が小門之阿波(オドノアハギハラ)で禊をされたときに、最初に出てきた神で、禍津日神(マガツビノカミ)というのがいるでしょ。これなんか私たちからすると良い所はゼロの神様ですよ。何しろ宣長によれば、世の中のあらゆる禍事(マガコト)は、すべてこの神から生まれたとされていますからね。
  • ということで言うならば、「良し・悪し」で人間は価値判断してしまうところと、「道」という言葉からイメージとして出てくる求道的な姿勢。「道」というものには価値判断としての「良し・悪し」、何が正しいものであるのかというのが、もともと内在化されているということなのでしょうね。


    それで言うと、価値判断が内在化されている「道」ということではなくて、神様がこういうことをして事跡としてこのようなことがありましたというその事実だけ。それが神様が通っていった、轍(わだち)として残った「道」。その「道」をそのまま見ていくということですかね。
  • まぁ、見ていくわけではあるのですけれどね。それを何か根源的な倫理規範として仰ぎ見るという見方ではなくて、見るというよりそのまま識るということですね。
  • それが良いことなのか悪いことなのかで判断するのではなくて、「へぇ~、そうなんだぁ~!」とそのまま受け取るということですか(笑)
  • そういうことです(笑)
  • 無茶苦茶ですわなぁ(笑)
  • それを受け取るのは理知ではなくて宣長の言う“情(じょう)”ですよね。ここら辺が間違えやすい部分ですよね。
  • 本当にある意味では、そのまま素直でないと、素直に「あぁ、そうなんだ」とそのまま受け取らない限り、わからないというか感じ取れないというか。すんなりとストンと腑に落ちないものだと言えるのでしょうね。
  • そうですね。宣長さんが『古事記伝』に書いていますけれどね。普通の人は“神”というのを外国で言う仏だとか菩薩だとか聖人などと同じに考えて、論理によって“神”の心をいろいろと推測するじゃないですか。すごいんだろうなぁ、素晴らしいことを考えているのではないかとか、常に人々を救うために心を砕いているのではないかと推測するわけですよ。だけれども、このように考えること自体がそもそも間違いなんです。
  • その部分でのボタンの掛け違えというのが、どのような結果を及ぼすのかというと上田秋成と宣長の論争になってしまうのですかね。
  • まぁ、ある意味ではそうですね。秋成さんとの論争はかなり幅広くなっていますからね。
  • 上田秋成に対しての一番最初の対応として、互いに論議を深め合っていくというスタンスではなくて、いきなり「これはそういうものなんだ」という言い方で返答するじゃないですか。それに対して何言ってんだということで上田秋成も熱くなってしまう。それに対してまた宣長さんも言い返す。


    最初からそこの部分、“神の道”での「道」のとらえ方のスタンスの違いというのがボタンの掛け違えとしてずっと最初から最後まで続いてしまったのかなというのはあるのかもしれませんね。
  • そうですね。その違いが出てきたところの根底にあるのが“漢意(からごころ)”です。宣長さんが書いている『鈴屋問答録』というのがあって、そこにわかりやすく書いているんで紹介すると、
  • 「わが御国は(中略)目にも見えず耳にも聞こえぬ理(ことわり)をたずねまうけてとかくいへる事さらになければ、火はただ火也(なり)、水は水也、天はただ天、地はただ地、日月はただ日月也と見る外なし。」

    「皇国(みくに)にていうかみ(神)は、実物の称(な)にいえるのみにて、物なきに、ただ其(その)理を、指(さし)ていえることはなき也。されば唐の易(えき)に神道と云(いえ)るも、神霊不測なる道と云(いう)意なるを、御国にて神道と云(いう)神は、実物の神をさして云(いえ)り。又(また)社(やしろ)に祀る神の御霊(みたま)などを、かみと云(いう)は実物にはあらぬに似たれども、これも其(その)霊を、直に指(さし)てかみと云也(いうなり)。唐の如く、其(その)霊(くしび)なる所を云(いう)とは異(ことなる)也。故に皇国のかみは体言のみに用いて、用言に云(いえ)ることなし。」

    『鈴屋問答録』

  • 日本では、「もの」が無いのに、その理(ことわり)だけを指して“神(カミ)”ということは一切無いんですね。中国の易経で「神」、「神道」といった言葉が出てくるんですけれど、「神(あや)しき道」という意味で言うんです。でもそれに対して、日本で言うところの「神道」の“神(カミ)”というのは実物を言うのだと。


    また、神社などに祀る“神(カミ)”、神の御霊を“神(カミ)”と言う。それは実物としては無いように聞こえるかもしれないけれども、それも神の御霊を直に指して“神(カミ)”と言うんですね。中国で言うように御霊の非常に不可思議で“あやしい”ところを形容して言うのではないんです。だから日本の“神(カミ)”は体言の みで用いるのだと。


    日本では目にも見えず耳にも聞こえぬ理(ことわり)を、根掘り葉掘り追求することは全く無かったのだと。火は火、水はただ水、天(あめ)はただ天(あめ)、地(つち)はただ地(つち)、日月(ひつき)はただ日月(ひつき)。“神(カミ)”もただ“神(カミ)”だったと。そのようなことを書いています。


    これで“神(カミ)”のアウトラインは、およそわかってもらえるのではないかと思います。


    付け足して言うならば、“神(カミ)”というのは、先程言ったように善悪に関係無いとするならば何に関係するのかというと、“誠(まこと)”という言葉がありますよね。この「誠か誠ではないか」というところには結構関係してくるんですよ。


    “神(カミ)”は千差万別、様々にいるけれども、みな“誠(まこと)”という意味では徹底しているというか、共通しているんです。“誠(まこと)”でない“神(カミ)”は一人もいません。


    ただこの“誠(まこと)”という言葉も多様な意味を持っていて、ある意味、悪も徹すれば“誠(まこと)”といえますからね。
  • 純粋な悪というのは悪においては“誠(まこと)”ということですね(笑)
  • (笑) だから人をたぶらかすのは誠(まこと)ではないと、われわれはどうしても思うけれども、一生懸命たぶらかそうとしているのは“誠(まこと)”なんですよ。(笑) これは『くずばな』に出てくるんですが、宣長さんはこういっているんです。古事記を見ると、神様はいろいろな謀りごとをめぐらしてやっていますね。 そういったことは“誠(まこと)”ではないではないかと普通は考えるのかもしれないが、そうじゃない(笑) 一生懸命に謀っているのだからそれは“誠(まこと)”なんだと。
  • 人間でいうならば自分自身の金儲けのためだけに一生懸命になって他の人がどうなってもかまやしないと動いていたとしても、それが純粋に突き詰められていればそれは“誠(まこと)”だということですね(笑) 純粋にそれだけにやっているのであれば。
  • (笑) ここで間違えやすいのですが、“誠(まこと)”という生き様をしていることを抽象化して“神(カミ)”と言うんじゃないんです。悪でも何でもくだらないことでも、一生懸命にやっている、我を忘れてやっているならば、それが度を外れて、人間の目から見て理解しがたいという状態になったときに「おおっ、“ 神(カミ)”だ」と。
  • それがたとえ取るに足らないようなどうでも良い小さな些細なものであったとしても……(笑)
  • 突き抜けていたら“神(カミ)”なんです(笑) 突き抜けているものの形容を“神(カミ)”だと言っているのではなくて、突き抜けている“コト”をやっている事実、その“コト”そのものを“神(カミ)”だと言っているんです。“神(カミ)”というのはその名なんです。そういうことを理解しておく必要がありますね。

    そうなるとここでひとつ問題が出てくるんです。“神(カミ)”というのは“モノ”である。そうすると“モノ”とは何であるのか。論理的に“神(カミ)”とは何かと定義するならば、第一義に“神(カミ)”とは“もの”のひとつであるということですよ。ここで、さまざまな他の創唱宗教、教祖と教義がある宗教と全く違う次元に行ってしまうんですよ。“神(カミ)”は“モノ”なんですよ。


    “モノ”というのは実物です。人間の頭の中で、ああじゃないこうじゃないと作り上げたものではないんですよ。人間がどのように考えようが、そこにそのまま存在するものですよね。“神(カミ)”とは“もの”である。“モノ”の中で、宣長の言葉を借りれば「世の常ならず優れたところがあって、可畏(カシコ)きもの」なんで す。“モノ”の中でも、普通では考えられないような突き抜けたところがあって、畏れ多いと感じさせる“モノ”そのものを“神(カミ)”と言うんです。


    それが人間の中に、奇異(くすしあやし)さ、畏(かしこ)さの情を顕現させてくる。それを理屈で分解し、言語化して理解しようとしても、そのようなものが全く及ばない突き抜けたもの。でも、その“モノ”に触れた瞬間に、理屈とか観念とかではなくて、その“モノ”を“モノ”として受け止めた刹那に起こる“情(じょう)”は、確かにある。その時、その“モノ”と人は一体になっているわけです。その瞬間において、“コト”としての、すなわち言葉としての「“神(カミ)”」が生まれるんです。それが原初において生まれた“神(カミ)”という言葉(名詞)ですね。そうなると“神(カミ)”という言葉は、“神(カミ)”という“モノ”を形容して名付けたのではなくて、“神(カミ)”という言葉そのものが、“モノ”(=“神(カミ)”)によって同時に顕現された“コト”そのものであり、言葉という“コト”の顕現は、そのまま “神(カミ)”の顕現なんです。そして、これらは同時の出来事です。


    言葉遊びのようなことを言っていますけれど、これは、現在“モノ”と“コト”というのが国語の中で、別の意味を表すようになっているので分かりにくいですけれど、根源を見るならば“モノ”も“コト”も一緒なんです。“コト”を瞬間で見るならば、“モノ”ですよ。同様に“コト”と言葉の“コト”も実は一緒なんです。これは時代を経るにしたがって、分化していったわけですね。

  • その部分の感性が残っている。その感性の部分がある意味では「言霊(ことだま)」に出てきていると考えても良いのですかね。
  • ある意味ではそうですね。「言霊(ことだま)」というよりも“コト”ですよ。

    これは本居宣長研究ノート「大和心とは」 : 第一回 「物とは」の巻で、“モノ”と“コト”の一般的な意味として岩波古語辞典から引用しておきました。改めて確認すると、

  • 物(モノ)

    • 形があって手に触れることのできる物体をはじめとして、広く出来事一般まで、人間が対象として感知・認識しうるものすべて。コトが時間の経過とともに進行する行為をいうのが原義であるのに対して、モノは推移変動の観念を含まない。むしろ、変動のない対象の意から転じて、既定の事実、避けがたいさだめ、不変の慣習・法則の意を表わす。また、恐怖の対象や、口に直接のぼせることをはばかる事柄などを個々に直接指すことを避けて、漠然と一般的存在として把握し表現するのに広く用いられた。人間をモノと表現するのは、対象となる人間をヒト(人)以下の一つの物体として蔑視した場合から始まっている。

    事(コト)

    • 古代社会では口に出したコト(言)は、そのままコト(事実・事柄)を意味したし、また、コト(出来事・行為)は、そのままコト(言)として表現されると信じられていた。それで言と事とは未分化で、両方ともコトという一つの単語で把握された。従って奈良・平安時代のコトの中にも、言の意か事の意か、よく区別できないものがある。しかし、言と事とが観念の中で次第に分離される奈良時代以降に至ると、コト(言)はコトバ・コトノハといわれることが多くなり、コト(事)と別になった。コト(事)は、人と人、人と物とのかかわり合いによって、時間的に展開・進行する出来事、事件などをいう。時間的に不変の存在をモノという。後世コトとモノとは、形式的に使われるようになって混同する場合も生じてきた。

  • 形があって手に触れることのできる物体をはじめとして、広く出来事一般まで。要するに出来事も“モノ”なんですよ。“コト”も“モノ”ですね。人間が対象として認識して感知しうる全てを“モノ”と言う。“コト”が時間の経過と共に、展開・進行する出来事、事件などを言うように、少し違いはあるんですけれどね。先にも言ったように、“コト”を瞬間で見るならば、“モノ”ですよ。また、これは以前にお話ししたことですが、ここに「時間」という言葉がありますが、わが国上代には、直線状に進行する座標としての「時間」という概念は、そもそも存在しません。実物の“モノ”の連なりを「時(トキ)」というのであって、あるのは実物である“モノ”の連なりだけです。その変化に気づいた刹那、「時(トキ)」が感じられるのであって、根源から見るならば、“モノ”も“コト”も同じです。


    また“コト”に関していうならば、古代社会では “コトバ”で表現された“コト”は、事実そのもの、すなわち出来事としての“コト”と等価だったんです。そして、出来事としての“コト”は、そのまま“コトバ”として表現できるとされていたんです。“コトバ”と“コト”は未分化だったんですね。


    このように、“神(カミ)”を理解するために、我々が前提としてわかっていなければならないのは、まず“モノ”です。それから“コト”。それから“コトバ”。


    原則的に、あまり変化しないものに対して“モノ”と言うのだけれども、この世の中には変化していく“モノ”も当然あるわけですね。“コト”にしても、ある出来事が起こった瞬間、その背後に何者かの底知れぬ実在感を感じる場合には“モノ”とかね。よく「もののけ」と言いますけれど、“コト”を瞬間的に切り取ると、それは静的な“モノ”ですよね。


    要するに“モノ”そのものが連なって、その連なりに関連性があって、動き(変化)の相から見るときが“コト”で、ひとつひとつに分解し、静的に見たらそれは“モノ”なんです。それから、“モノ”も“コト”も、それぞれ固有の「性質情状(あるかたち)」を持っていて、それが人間に様々な「情」を喚起させる。その仕組みは全く同じです。


    そして、“コトバ”というのも、刻々と生まれてくる“モノ”“コト”そのものだから、“コトバ”が生まれた瞬間、表現された“コト”と、出来事の“コト”は等価なんです。つまり、出来事の“コト”であろうと、言葉の世界で表現(実現)された“コト”であろうが、それを受け止める「情」から見れば、全く同じ感応を受けるわけです。結局、世の中に生起した事(コト)という意味では、出来事として起こった“コト”も、言葉として起こった“コト”も、同じということですね。


    先ほど“誠(まこと)”について、簡単にふれましたが、ここで、“真心(まごころ)”というか、“真(まこと=誠)”について、補足しておきたいと思います。真心(まごころ)”については、すでに本居宣長研究ノート「大和心とは」 : 第七回「「真心(まごころ)」とは」の巻 / 本居宣長研究ノート「大和心とは」 : 第八回「『真心(まごころ)』の型」の巻で書いていますが、宣長さんは、“真心(まごころ)”について次のように言っているんですね。
  • 口語訳

    真心(まごころ)とは、産巣日(むすび)の神の御霊(みたま)によって、備え持って生(うま)れたままの心をいう。さてこの真心には、智なるもあり、愚なるもあり、巧(たくみ)なるもあり、拙(つたな)きもあり、良きもあり、悪(あし)きもあり、さまざまであって、天下の人は、ことごとく同じものではないので、神代の神たちも、善事にもあれ悪事にもあれ、おのおのその真心によって行いなさったのである。(中略)すべて善にもあれ悪にもあれ、生まれついて持っている心を変(かえ)て移るのは、皆真心を失うのである。

  • “真心(まごころ)”というのは、一般に言われる誠実さとか誠意とか、善の観念が付いているもの。それとは関係ないんです。生まれたまま、そのままで動く“心(こころ)”なんです。


    なにか“コト”に触れれば悲しい、嬉しい、腹立たしい。そのように、ありのままに動く“心(こころ)”が“真心(まごころ)”なんです。
  • それで言うとお母ちゃんに会えなくて「悲しい」って言って、髭がボウボウになるまで泣き喚いていたスサノオなんかは“真心(まごころ)”そのものであったといえるわけですね。
  • そうですね。“真心(まごころ)”というのは、それが良いことである、悪いことであるといった善悪を超えて、“コト”に触れて素直に動いている、動かされているそのままを“真心(まごころ)”と言っているんです。だからこれは、価値判断なんかから外れたものなんです。そういう“真心(まごころ)”において生きている人においては、出来事として起こったと認識した“コト”も、それを表現した言葉としての“コト”も、全く同じですよね。共に、心に偽りの無い真(まこと)によって認識され、生み出されているという点では、一貫しています。ここが分からないと、宣長さんの言うことは、なかなかわからないと思います。
  • 言葉を言葉として確定された後の意味のところから取っていくとどうしても掴み損ねてしまうということですね。
  • “コト”に触れてそのままに動く。嬉しいときは嬉しいし、悲しいときは悲しい。善悪とか、賢愚とか、巧拙とか。一切の価値判断に関わることなく、“コト”に触れて動くという純粋な働きを、何のはばかりもなく働かせている“こころ”を、“真心(まごころ)”と言うのですね。
    だから簡単に言うと“コト”に触れて動く“こころ”は“真心(まごころ)”なんです。そして、“真心(まごころ)”において、出来事として認識した“コト”も、行動した“コト”も、“言葉(ことのは)”として発した“コト”も、偽りの無い“こころ”、すなわち真心(まごころ)から生み出された“コト”という意味において、全て真実なんです。


    だから宣長さんは古事記はすべて真(まこと)だと言ったんです。われわれは古事記に書いてあることは、荒唐無稽な神話の中の架空の出来事と言いますが、全くとらえ方が違いますね。
  • 逆に荒唐無稽な物を整理しようとしていないということが素晴らしいことであるということですよね。ある意味で。
  • 神代に起こったことが、偽りのない真(まこと)の位において、そのままに記されたんで、それは真(まこと)ですよ。
  • それを整理整頓してわかりやすく論理立ててやっていないということですね。
  • 当時の常識であった陰陽二元論などの世界観でもって、色々と書き直したりしたのが日本書紀ですね。
  • (笑)
  • ですから逆に言うと、日本書紀はそのままでは信用できない。その点、古事記はまったくありのままの“コト”に忠実ですよ。現代人のいう科学的真理とか、普遍的真理とかは、昔の人たちには何の関係もないですから。


    真実そのままを書いたということです。
  • 伝えられているものをそのまま残したということですね。それを世界観で再構成はしていないということですよね。
  • 起こった事実のままですよ。“天照大御神(アマテラスオオミカミ)”が“豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)”に産まれたのも、そのままの“真(まこと)”です。真実。


    われわれはこの世の中には、科学的な検証にも耐えられる普遍的真理というのが一つだけあるのだと思っていますけど、そういう見方そのものが……
  • “漢意(からごころ)”。
  • そんな科学的・普遍的真理なんてものが実際あるんですかね。いつ、どこでも、誰にでも当てはまり、論理的にも検証可能な真理というものが、この世のどこかに必ず存在するという幻想を“漢意(からごころ)”というんです。
  • ひとつの価値判断ですべてを一色で染め上げるということですかね。
  • そうですね。要するに科学というのは、あるひとつの条件(公理)を設けて、そこから概念操作や、因果律など特定の物の見方を用いてみたならば、こういうこと(=結果)が言えますよという。ただそれだけの論理的整合性があるのに過ぎないのだということは、『直毘霊(なおびのみたま)』の最初の方で既に説明したと思います。
  • その点、そういったひとつの視点という形ではなく、視点という物を持たずに“コト” そのものを記したのが古事記であったということですね。
  • そうです。だからすべて“真(まこと)”。信じるに足る。信用するに足る。
  • しかし、なかなか現在では信用されないでしょうねぇ(笑)
  • でも宣長さんは、それが本当に起こったことだと、素直に情(こころ)で受けとめたというか、“真心(まごころ)”で受け取っているんですね。そこにおいて、何の偽りも断絶もないですね。
  • 断絶はないですね
  • われわれの、そういう“漢意(からごころ)”的な世界観だとか真理だとかいうものを中心にして物事を見ようとする一元的な見方。何事にも論理的な整合性を求める見方。そういった見方自体が、人間の浅はかな知恵の産物なんだと宣長さんは言っているわけなんですね。
  • 人間が考えている、人間が把握できている範囲内においての論理関係によって世界はすべて動いている。ということを、すべての前提にすることによって世界を「見る」。それが全面的に正しいとしているのが、今の価値観であるのは事実ですよね。
  • そうですね。
  • しかしそれは逆に言うと、人間が認識するものというのは「見たいものしか見れない」部分がある。それで言うと、結局のところ「見たいものしか見れない」、その限られた中での判断の基準でしかない。それが論理関係的に正しいというのは、論理関係を証明する範囲の中のものしか見ていない。自らが作り上げた、論理関係で把握することができるものしか見ていないのですから、それが論理関係で正しくなるのは言うまでもない。しかし、それ以外の部分については見ていないということですよね。



  • そこは以前取り上げて、そもそも真理とは何かとか、真理の判定基準としての検証原理とかの話をしましたけど。そういったこととは一切関係のない(笑) 無いというよりも、そもそもわれわれが、そういったものに染め上げられなければ原初的に持っている、しかもそれは日本人だけが持っているのではなくて、どんな人でも産まれながらの“真心(まごころ)”のままであるならば、そのようにしか見ることができない。そのようなものですね。


    それは一つの捉え方というよりも、本当のところわれわれは、実質的に根っ子の部分では、そのような見方で感じられたもので動かされているんですよ。近代以降、客観と主観を峻別して、客観的なものを徹底的に分析して出てきたものが普遍的真理であるかのように考えられていますけれど、それとは全く違ったもの。外界に起こったことであろうが、言葉の世界で起こったことであろうが、心の中で起こったことであろうが、それはすべて同じ“コト”。“コト”と“モノ”の織りなすこの世界の中に、確かに生起したものという点で結局同じなんですよ。


    で、それを受け止めた人間のリアクションは、一体何で決まるかと言うと“コト”に触れて感じた度合い。すなわち感応の度合いですよ。その際、“コト”に触れた刹那、動かされるままに感応すれば“真心(まごころ)”なんですけれどね。


    ところが往々にして、その“コト”を受け止めたとしても、すぐに“漢意(からごころ)”で、これはこういうことで赫々云々と理屈をつけて納得してしまう。たとえ怪しいものに出くわしたとしても、単に光の反射で変に見えただけだ、とか理由をつけて怪しいものを怪しくないものにして納得してしまう。でも、怪しいものとか、普段現れないようなものが見えた瞬間、理屈をつけて納得してしまう前に、ある種の感応は確かに起こっていわけです。その感応をそのまま素直に表したときに、人の振る舞い、出てくる言葉、心の動きはすべて“真(まこと)”です。そういったところで、上古の人々は動いている。


    この形は、今の人たちも根本はぜんぜん変わらない。その瞬間の受け止め方というか、感応は同じ。結局、世の中に起きた“コト”に感応して皆、動いているんですよ。

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